茶芸師とか茶師とか評茶師とか

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写真は本文とは関係ないけど、ちょっと色々考えた話なので、考えてる感じの写真を合わせてみた。この人は、スピーカー作りの神様ヘンリー・クロス。

テレビで俳優の保坂尚輝氏が、乾燥肌の解消のために中国茶を飲んでいるというような話をしてて、その時に「茶藝師に弟子入りした」とか「本当は茶師と言うんですけど」みたいな事を言っていた。まあ、茶藝師は乾燥肌とは関係ないと思うけど、茶師って茶農の人の事じゃないっけ?よく知らないけど。

あまり興味が無いので、よく知らないのだけど、茶藝師というのは日本語的に考えると、不思議な名前だなと思う。「茶藝」と聞くとなんとなく「水芸」みたいに扇子の先からお茶を吹き出しそうな気がするのだ。「芸」は「芸」だろうと。

茶師は、イメージとしてはお茶を作る、つまり製茶する人のことかなと思う。多分、それで当たりのようで、これは言葉と実際にギャップは少ない。茶農が茶師を兼ねることもあるし、茶屋が茶師を兼ねることもあるだろう。日本のお茶屋さんは本来はみんな茶師だったのではないかと思う。

「評茶師」は、名前がカッコいいけど、「評」という文字はカッコ良くも悪くもなる言葉だから微妙に危険か。茶のソムリエみたいなイメージはあるけど、そのあたりはどうなんだろう。例えば、茶そのものについての「評論」を書くコンテストがあったら、俺はかなりいいトコまで行ける自信はあるけど、それは言葉としての「評論」であって、茶とは実はあんまり関係ない。そう考えると「評茶」というのはやはり微妙か。

そういうことを考えてて、ふと去年、設楽さんが引率した茶芸師資格取得ツアーのことを思い出した。あれって、考えてみると健全だなあと。それは設楽さんが噛んでるからかと思ったら、実はそうではなくて、あのツアーは設楽さんの友人がやってるものだそうだ。で、友人がやってる事だから、何か手伝おうか、という部分で設楽さんは引率の先生になっているということらしい。

で、当然のように、茶芸師になりたいわけではないけど、お茶は好きだし、設楽さんが茶器の買い物とかに付き合ってくれるということで、だったら北京にいって見るのもいいか、という動機で参加した人もいる。そういうのって、何だか良いなあと思うのだ。そのついでに資格もとってしまいました。とか、そういうの。

で、聞いてみたら今年も、9月18日(日)〜25日(日)に第二回茶芸師資格ツアーを計画しているそうで、今回もおなじように設楽さんが付いていってくれるらしい。茶芸師の資格取得ツアーに、茶芸はあんまりどうでもいいという感じの設楽さんが付いていくというのが、このツアーの味噌なんだろうな。そう考えると、俺も行きたくなるもん。まあ、俺の場合、行っても資格取らないだろうけど。

設楽さんと、このツアーをやってる北京龍頭公寓の方との打ち合せを小耳に挟んだのだけど、基本的に設楽さんがついて行く以上、設楽さん的に満足出来るツアーになるわけで、そうなると宿泊するホテルとかのランクが上がる。何か、そういう事を話してたりする。なるほどなあと思った。

探したら、北京龍頭公寓のホームページもあった。良く分からないが、このホームページか海風號で参加申し込みが出来るらしい。人数は、設楽さんが面倒を見切れる分しか連れていけないということで、限定になってるらしいけど、このへんもよく分からない。茶芸師について考えてたら、こういう脱線をする俺は、やっぱ、茶芸には興味ないのだなと思うけど、いつか、設楽さんと旅行に行けたらなとは思っている。

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何故、中国茶の歴史に興味が持てないのか

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Photo by MEGMU@MAME-EN

 俺は、何かが好きになったら、まずその歴史を知るべきだと思っている。例えば、俺はロックが好きなのだが、その好きになった最初は、ローリング・ストーンズとT-REXとKISSだった。で、そこから、ストーンズはR&Bに影響を受けていると聞けば、R&Bの名盤と言われているものを聞いてみる。T-REXはグラムロックだと聞くと、グラムロックの他のミュージシャンや、グラムロックが現れる歴史的な流れを押さえてみる。KISSからアメリカンロックの歴史を遡って、ウェストコーストとサイケデリックからビート主義にたどり着いたりした。

 そうやって、ロックミュージックの歴史と変化を、実際の作品を聞いて、コピーして、自分でも作ってみたりしてる内に、ロックに対する自分の好みやスタンスがはっきりしてくる。その中で、音の中に色んな発見があったり、新しいスタイルが出てきた時に、それがどういう経路で生まれたものかが把握出来たりする。基本的に、表現というのは、そうやって受け継がれ、変化していくものだと思っているので、歴史を把握するというのは、表現を楽しむためには本当に重要なのだ。

 それは、音楽に限らず、美術でも映画でも同じで、美術にしても映画にしても、今はかなり古い作品も実際に見ることが出来るせいで、誰かのフィルターを通したものではない、比較的生に近い歴史に触れることが出来る。昨日、トリュフォーの「アメリカの夜」を久々に見直しながら、「雨に唄えば」とか「女優霊」とかの、映画を作る過程を描いた映画を色々思い浮かべていたのだが、そういうことは、実際に歴史を辿ることが可能な「表現」というジャンルの面白さの一つだと思うのだ。

 落語などだと、例えば家には、立川藤志楼師匠の真打ち昇進披露の挨拶から、最後の非合法落語会までとか、春風亭昇太師匠の前座時代のテープから、つい最近の会の記憶まであったりして、一人の芸人の歴史を俯瞰することも出来る。競走馬の成長とか、歌舞伎役者の成長と同様、一人の表現者の中でも歴史を辿るのは本当に面白い。

 そんな俺だけど、例えば「茶経」とか読んでも全然面白くないのだ。布目潮[シ風]著「中国喫茶文化史」(岩波書店、1200円)も、書物としてはそれなりに楽しく読むのだけど、中国茶の歴史に関して、例えばロックの歴史ほど、身にしみないというか、興味が持てないのだ。

 その大きな原因として、その時代時代のお茶を飲むことが出来ないということがあるのだろう。音楽なら聞ける、絵なら見られるけど、お茶はねえ。歌舞伎なんかは、江戸歌舞伎を見ることは出来ないのだけど、台本は残ってるし、仕掛けを絵にした本もあるし、役者絵もあるし、明治くらいならレコードもある。それらを総合し、現在の歌舞伎から想像を巡らせることで、かなりリアルに江戸歌舞伎を想起出来る。でも、嗜好品は実際に飲み食いしないと、本当に分からない。

 さらに、何故か、継承の力が感じにくいのだ、お茶の世界って。継承されることで生まれる新しいものは、その背景を知らなくても、十分その新しさ美味しさを感じられるような気がする。歴史を知っていれば、より楽しみが増えるジャンルではないような気がするのだ。「味」とか「香り」を楽しむ世界の場合。

 一方で、例えば最近ちくま文庫から出た「辻静雄コレクション」のような、食の歴史に関するエッセイなどは、凄く楽しく読めてしまうのだ。辻静雄の「フランス料理の手帖」では、フランス料理を日本に紹介するという目的を第一に、その目的に沿った形で歴史が提示されるし、「舌の世界史」では「今ある形がなぜ、そのようになったのか」を知ることで、洋食に対する偏見や気取り、難しいのではという思い込みをなくして行こうという目的のための「歴史」が書かれている。なので、歴史そのものが身近なので、面白く読める。

 自分が食べている料理と、そこに書かれている歴史が地続きであると思えれば、歴史は面白くなる。お茶の歴史は、何故このお茶が美味しいのかを探るためではなく、文化の伝播とか、中国茶という文化の成立といった、嗜好品として以外の歴史を辿ろうとしているから、イマイチ俺には面白くないのかと思う。もし「茶経」に、今でも通用する、凄く美味しいお茶を淹れるための呪文とか書いてあれば、多分、俺はもうむさぼるように読むと思う。で、そういう呪文や技術の歴史とかも調べまくると思う。だって面白そうだから。

 それが無い、どこか、中国茶の歴史は現在と地続きでないように思えてしまう。それが僅かにでも感じられるのは、茶葉ではなく、むしろ茶器の方で、それでも、古い茶器は、その存在感の凄まじさとは逆に、古いものほど、今使うには使いにくい。気軽に使える値段でさえない。それは道具の歴史であり、骨董とか、そっちの系統になり、そっちの歴史は、それはそれでやはり面白い。

 でも、せっかく中国茶が好きなのだから、その歴史にも興味を持ちたいとは思う。誰か、今の中国茶の楽しみと地続きの中国茶を楽しんできた歴史についてのカジュアルな本を書いてくれないかなあと、本当に思う。

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じゅるじゅるっ、と飲むこと

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Photo by MEGMU@MAME-EN

 前にまめゑんの恵さんが、お茶を飲んで「あ、いかんいかん」と言っていた。何だと思ったら、「つい、じゅるじゅるっ、と音を立てて飲んでしまう。外ではコレやらないほうがいいと思うのに、つい出てしまうことがあって、良くないことであるよ」と言う。ほとんど聞こえないレベルだったんだけど。

 前に海風號の設楽さんが、「僕は、あのじゅるじゅるっ、て音を立てて飲むの嫌いなんだよね。みっともない」と言っていた。確かに、聞いて気持ちいいものではない。設楽さんのような立場だと、聞かされる頻度も高そうだし。

 じゅるじゅるっ、と飲むことで、口の中でお茶と空気が混ざって、より味がはっきり分かる。それはワインのテイスティングの時に、ぐちゅぐちゅっ、とやるのと同じだ、というような事が書いてある本を読んだような覚えがある。また、そういうことをすると、中国や台湾のお茶屋さんで「むっ、出来る」と思ってもらえるとか、そんな文章を読んだ覚えもある。

 確かに、じゅるじゅるっ、と飲むと甘さとかが増す感じがする。口全体にお茶が行き渡るので、微妙な味わいも感じ取りやすくなるように思う。ただ、これ、ご飯をくちゃくちゃ言わせて食べるのに似てる。くちゃくちゃ言わせて食べた方が、味は分かるし美味しい場合も多い。でも、アレ、一緒に食べている人には嫌がられる、普通。

 美味しくお茶を飲むのは悪いことではない。だから、じゅるじゅるっ、と飲むのが好き、というのも悪いことではないと思う。ただ、人前ではどうなの?というところで、恵さんや設楽さんの発言に繋がる。みっともいいものではないことは自覚したいね、とか。ワインのテイスティングだって、食事の最中に皆の目の前でいきなりやられたら気持ち悪い。

 でも、美味しく飲みたいのは人の性。同行者が気にしないレベルで、しゅるっ、と啜る程度なら許してもらえるのではないだろうか。お茶をすする、という言葉もあるのだし。くらいは思う。そっと、一口か二口、しゅるっ、と。多分、誰も気がつかない。そのくらいなら良いのではないかと思うけど、確かに、恵さんが言う通り、それがクセになってるのは良いことではないとは思う、俺は。

 まあ、要は、当人の美意識の問題だし、人それぞれのお茶の楽しみ方に文句をつける筋合いは無い。でも、個人的には、それがどういう種類の文脈であれ、「こうすると舐められない」というような情報は提供する側も真に受ける側も好きでないので、出来れば「じゅるじゅるっ、と飲むと美味しいんだよねえ」という方向で行ってほしいとは思う。

 で、実際のところ、どんなもんでしょう。じゅるじゅるっ、好きですか?

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中国茶と蘊蓄の功罪

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Photo by MEGMU@MAME-EN

 蘊蓄そのものは、悪いものではないと思う。ただ、蘊蓄は、その開示の仕方にテクニックがいる。さらに、誰が蘊蓄を語るかによっても、色々問題が出る。そして重要なのは、蘊蓄とデータの披歴とは違うということ。昨日今日知ったことをダラダラと書き連ねることは蘊蓄とは言わない。

 凄く平たい話をしてしまえば、蘊蓄を語るのには資格がいる、ということだ。でも、それは茶藝師とか評茶師なんていう、何かの組織が出す資格ではないけど、そういう勉強したり試験を受けたりすればどうにかなるような資格ではないし、それを自分が持ってるのかどうかさえ定かではないようなものだから難しい。

 例えば、鉄観音について何か書こうとして、その名前の由来をネットで調べて、それを書いたとする。それは蘊蓄ではない。単なるデータの引用であり、引用元を明らかにしなければ、ただの剽窃。もしくは、誰かの蘊蓄のパクり。もっとも、その名前の由来から派生した自分なりの考えとか、中国茶のネーミングに関する考察みたいなものが、その引用の後で続くのなら、それは引用であり、ネタ振りでもある。

 昔、中国茶のことを取り上げたサイトを見ると、ショップでも、個人でも、やたらと六大分類の話が書かれていて、何だかなあと思ったことがあった。自分が知った知識を他の人にも伝えたいというのは悪いことでは無いと思う。でも、中国茶のサイトに行くと必ず、「六大分類」があると、それだけで何か難しそうだし、そういうところから入らなければならないのかと思う人も多いと思う。さらに、「もう、それは分かったから!」と思う人も多いはずだ。

 で、中を読むと、「難しいことは考えずに、まず飲んでみて」とか書いてある。じゃあ、その前の「中国茶の基礎知識」は何だったんだ、ということになる。ついでに言えば、ちょっと先に好きになったくらいで、何で「飲んでみて」とか言われなければならないのだろうとかも思う。これは蘊蓄ではなくて、蘊蓄の縮小再生産。こういうのが増えると、「ほんわか茶飲み日誌」カワスギ・ヒロエさん言う所の「蘊蓄の気配が重い」ということになるのだと思う。

 まず蘊蓄の条件、その1。調べた結果の情報は蘊蓄って言わない。それは情報の元。蘊蓄は、何かを見た時に、その人が持っている蓄積の中から出てくるものである。だから、生の情報ではなく、他の情報と組み合わされ、話のネタとして作られているものになる。ということで蘊蓄の条件、その2。読んだり聞いたりした情報をそのまま口にするのは蘊蓄とは言わない。それは知識の披露でしかない。

 ということで、中国茶にまとわりついているのは、実は蘊蓄ではなくて、情報なのだ。ただ、その情報が様々に交錯しているせいで、蘊蓄のような回りくどさを持ってしまったというのが面倒くさいところ。そのせいで、何か知識が無いと、その魅力を理解することが出来ないのではないかという気になったりする。

 「この鉄観音、美味しいですね」と言ったら、「うん、それは初心者には飲みやすいもんね」という答えが返ってきたら、そりゃ、鬱陶しいってもんだ。でも、かつてはそういう風潮もあったと思う。それは、先輩の親切心だったりもするんだけど、嗜好品に先輩の教えなんて要らないんだよっ!、とは言いにくいムードはあったんだと思う。今なら、「うん、それは初心者には飲みやすいもんね」と言われた瞬間パンチが許されていると思うのだが(違うか)。

 蘊蓄は、人に何かを教えようというものではないはずなんだけど、基本的には自分の中にある情報を人に向けて発信する以上、話術や謙譲の気持ちがないと、ひたすら嫌みになる。一番難しいのは、そのあたりだ。ひらたさんの蘊蓄が、楽しく聞いたり読んだり出来るのは、やっぱ、ひらたさんの偉そうにしない人柄だし、その蘊蓄の背後にある圧倒的な情報量に支えられた説得力のせいである。で、それこそが蘊蓄を語る資格。で、そういう蘊蓄は、別に重くもなければ鬱陶しくもない。むしろ楽しいと言える。

 一方、お茶についての情報を、自分の言葉で加工し、話のネタにしてゴチャゴチャ言うのは、これは蘊蓄でも情報のタレ流しでもなく、「お茶についての意見」とか「お茶についての戯言」とか「お茶についての言説」とか「お茶日記」とか、まあ何でもいいけど、書き手と読み手が対等のフィールドに立った上での、お茶を巡るコミュニケーション。蘊蓄も、本来は、そういうネタへの導入とか、話のネタ振りのためのもの。本題は、そこから「自分」は何を感じたか、何を考えたか、何を書きたかったか、という部分。そうでないと、読んで面白いものにならない。しながわさんが言ってるのは、こっちだと思う。

 それが例え、似たような表現の反復になろうとも、「今日飲んだ、Formosa Tea Connectionの凍頂山烏龍茶は美味しかった」「今日は、海風號の黄金桂を飲んだ。好きな味だ」という文章の方が、「黄金桂というのは、こういう歴史があって…」とかいう文章より、よほど価値があるのがインターネットという場所だったり、嗜好品を語るというフィールドだったりする。もちろん、黄金桂の歴史について、きちんと面白く書いてあれば、それはまた楽しく読めるのだけど、そこらの本からの引き写しなら書かない方がまし、とか。

 「ああ、この人は、このお茶を美味しいと思うんだ。この間は、俺が好きなアレを美味しいって書いてたし、ということは、このお茶も俺好みかも。買ってみよう」と思えれば、それは立派な役に立つ情報であるし信頼性も高い(だから、どこで買ったお茶かも出来れば書いて欲しいと思う俺であった)。お茶の分類なんて美味しいお茶を飲む役には立たない。知識や書籍系の情報より、個人の考察や嗜好の方が重要なのが、嗜好品という主観に依存するジャンルの特徴。

 つまるところ、読んで楽しい情報、自分のお茶ライフに即役立つ情報と、ただの知識、奥行はあるけど面白くない蘊蓄、聞いて楽しい蘊蓄などなど、中国茶の周りには、色んな種類のネタが絡みついていて、それ自体は、中国茶に限らず何でも同じなんだけど、こと中国茶に関しては、その初期に学者さんとかが主導しちゃったとか、中国という文化にびびっちゃったとか、台湾人が哲学にしちゃったとか、そういうのが絡んで、知識優先的な土壌が作られてしまった過去があった分、絡みついたネタが重苦しく見えてしまった、ということではないかと思う。

 誰かが、その人の価値観とその人の感性を元にして、その人の言葉で語る話なら、俺は常に楽しく読むことが出来る。中国茶が好きな俺は、人が語る中国茶の話も大好きなのだ。で、お互いの立場と趣味の上で色々話し合えたら楽しいじゃないかと思うのだ。だから、重要なのは、対等に喋れるということで、それが出来にくいと感じる時に「蘊蓄の気配が重い」なんてことになるのではないかと思うのだ。

 ひらたさんが語る上質な蘊蓄を楽しむ一方で、こんなバカ話を延々と書いてる俺の存在も許してもらえてるのは、中国茶が蘊蓄に縛られたものではない証拠ではないかと。そう思ってないと、こんな文章書いてられないし。

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靴と茶壺

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 海風號に行ったら、設楽さんが「秘密兵器が発見されましたよ」と言いながら見せてくれたのが、写真の瓶。これ、M・モゥブレイ社製のステインリムーバー、つまり靴用の汚れ落としで、「汚れた茶壺は、これで磨くといいんですよ。相当強力な汚れも大丈夫です」ということだそうだ。

 発見したのは、設楽さんの古い友人で医師の小山田さん。「茶壺は、ほら靴墨とかで汚れを付けてたりするから、落とすのも靴磨きでね」ということらしい。何となく、理屈が通っている感じなのが可笑しくて、でも、ちゃんと効果があるというのが面白くて。理系の発想だなあとかも思う。

 このステインリムーバーは、イギリス王室御用達の定番汚れ落としだったメルトニアン社のものを譲り受けたもので、他のリムーバーと違って水溶性で酸性だから、色を損なわずに汚れが落とせて、扱いも楽で、カビ防止の効果も期待出来るという物らしい。本当に定番アイテムらしく、ネットでもあちこちで購入可能。1瓶60mlでだいたい630円くらい。

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古いとか歴史とか

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 この間、海風號で設楽さんが「僕が初めて中国で茶芸を見たのは、今から15年ちょっと前くらいで、その時はみんな笑ってたんですよ」と話していた。また、くんしゃんさんは「お茶をはじめた20年くらい前には、茶葉も茶器もろくに日本では手に入らなかった」と言っていた。俺も、20年前くらい前から烏龍茶を飲んでいるけど、工夫茶みたいなものを知ったのは、それから10年以上経ってからだった。

 例えば、早期壺とか文革壺とか言われている茶壺があって、何となく随分昔のもののような気がする時もあるのだが、実の所は文化大革命が1965年〜1969年あたりで、そこから80年くらいまでに作られたものが早期壺と呼ばれているわけで、ロックの歴史で言えば、ビートルズの現役時代、いわゆるリバプールサウンドの時代が文革壺で、そこからパンクロック隆盛くらいまでが早期壺。かなり最近のものである。

 民国壺と呼ばれるのは、中華民国の時代、つまり1912年から1949年までの間に作られた茶壺。これは大正時代から戦後すぐくらいまで。つまり、日本文学の歴史で言えば、ちょうど探偵小説の黎明から社会派ミステリの台頭によって本格ミステリが追われる時代。江戸川乱歩から松本清張までという感じだ。

 清は1644年からなので、江戸時代から明治にかけて。それも、ちょうど歌舞伎が発生する元禄時代あたりで現在の茶壺に近いものが作られ、歌麿・写楽が活躍する寛政期あたりに陳曼生などの、いわゆる文人墨客の茶が人気になって、幕末から明治にかけて大量生産の一般への消費が始まるという感じで、この辺は浮世絵の歴史に当てはめると、菱川師宣あたりで茶壺が完成し、春信・清長あたりのポップセンスの時代に様々な形が試みられ、歌麿あたりで様式が完成。北斎とか国芳といった天才による模範作品の時代を経て、新聞浮世絵などのマスコミの時代へと続く、といった感じなのだろう。

 とか考えると、意外にどうってことない歴史ではあるのだ(と思うのだ)。特に、現代の形になってからのお茶は(作る方じゃなくて、飲む側に関してね)。例えば、俺の仕事部屋の本棚には近松全集があって、これは清の初頭の頃の作品。鶴屋南北全集もあって、これは清朝の爛熟時代。清末から民国だと、もう中里介山から押川春浪、白井喬二に国枝史郎、黒岩涙香、小酒井不木、森下雨村、海野十三、江戸川乱歩、横溝正史に牧逸馬、松本泰、浜尾四郎なんて本はいくらでも手元にある。

 海外ミステリの黄金時代と言われるのは1913年の「トレント最後の事件」から始まって、クリスティ、クイーン、スタウト、ライスなどなどがデビューする1930年代後半だから、ちょうど民国の時代。民国壺を手に入れるのは難しいけど、黄金時代のミステリは文庫でいくらでも読める。

 清末が探偵小説と伝奇小説で、民国がミステリ黄金時代で、文革がロックの始まりで、早期壺はハードロックからパンク。台湾茶の歴史は、そのあたりから本格化するから、時代としてはハウス〜グランジ、ミステリなら新本格。というふうにまとめて把握すると、お茶も随分身近な感じがするのだった。

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闘茶というゲーム

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写真は「源氏式」で使う源氏香の図一覧表

 二種類の闘茶ゲームをした。仕切りはひらたさん。AAJの方でやったのが面白かったらしく、その方法と実際を紹介する意味もあって、闘茶会が行われたのだった。

闘茶というゲームの実際は、カード&ボードゲームガイドの闘茶で3ガイド風流対決!を、闘茶が出来る茶館についての詳細は、横浜ガイドの横濱茶館の記事を参照のこと。

 で、今回行ったのは、五種類のお茶をそれぞれ五つづつ用意して、それをシャッフルして、五つ選び出し、その五つのお茶のどれとどれが同じお茶かを当てる「源氏式」と、三種類のお茶から二種類をまず飲んで、その後、その二種類を含む三つのお茶を飲んで、最初に飲んだ二種類と飲んでいない一種類がどれかを当てる「二見式」の二つ。

 「源氏式」は、五つのお茶を順番に飲んで、その内のどれとどれが同じだったかを、源氏香の模様で答えるというものだから、要するに舌の記憶力がポイント。問題は、飲み比べが出来ないということで、1つ飲んだら、次と、順番に飲んでいく。

 何が難しいといって、「美味しい」「美味しくない」「好き」「嫌い」にメチャクチャ足を取られること。怖いのは、「美味しい」とか「好き」なんて感覚は、ほんの少しの淹れ方の違いで平気で感じ方が変わること。もしかしたら、「好き」「嫌い」に関する味覚が鋭敏な人ほど不利かも知れない(自分勝手な負け惜しみだなあ)。

 淹れ方の違いで言えば、参加者全員(淹れたひらたさんも含む)が、連続して飲んだ上に自信を持って違うと言い切ったお茶だけが、同じお茶だったという結果も出た。あれを当てられる人というのはいるのだろうか。焙煎・発酵とも強めと皆が思ったお茶と、一番生っぽいと皆が思ったお茶が、その二つだけが同じだったのだった。

 多分、覚えなければならないポイントが、いわゆる「品茶」とは全然違うのだ。しかし、淹れ方とは無関係にどこかにあるはずの「そのお茶がそのお茶としてあるところの特徴」を、茶杯一杯分で見つけ出すのは、それらのお茶を飲み付けていないとちょっと難しい。淹れ方の差違を越える特徴をどこに見つければいいんだか。

 それにしても、思った以上に、俺の舌は「美味しさ」だけを探ろうとする浅ましい舌だった。「ああ、このお茶は、このへんにこういう風に美味しさが感じられるなあ」なんてことを考えているのだ。で、相手は全部台湾高山茶。味や風味の違いはあるのだろうけど、美味しさのポイントなんて似てて当然。

 まず二種類のお茶を飲み、続いて三種類のお茶をランダムな順番で飲む。一つ飲んで、最初に飲んだ二種類のお茶のどれかか、飲んでないお茶かを判断し、1、2、客と書いた札から、そのお茶が1番目と思ったら「1」を渡す、という手順で三種類のお茶を当てていく「二見式」は、「源氏式」に比べると、記憶力頼りではない。

 ゲームとしてだけ考えれば、最初の一つが当たれば、後は二分の一の確率になるのだから、二番目のお茶だけを本気で覚えて、最初の1杯が二番目のお茶と同じか違うかを、いわゆる飲み比べの容量で感じ取れば、全問正解も夢ではない。

 とか、今となっては他にも色々攻略法は思いつくのだけど、その場では、単にお茶を飲んでは、やはり「好き」とか「美味い」とか思ってしまって、結果は本当にダメダメ。もう、あまりのダメさに、泣きたくてしょうがなくて、思わず京都に行こうかと思ったくらいであった。

 泣きたい時は京都で泣けと、あの人が…((C)田中啓文)。

 いや、しかし面白かった。何というか、これ立派なゲームだ。神経衰弱とかに近いとは思うけど、二見式とか、チップの賭け方考えて、ディーラーvsプレイヤーの構図でやると、それもまた面白そう。あと、ダウンタウンが「ガキの使いやあらへんで」でやってる「その一口に命をかけろ! 聞き○○大会」方式もやってみたい。

 ただ、「お茶の味を楽しむ」という事からは、とんでもなく遠い遊びであることは間違いない。

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お茶を篩う

 海風號に最近入荷した、安い金奨鉄観音と安い黄金桂がどっちもイケる。どっちも70gで2000円。詳しいことは別の機会に書くと思うけど、俺としては、その一個上のクラスの鉄観音より、こっちの方が好きなくらいだ。
 生っぽさが全然なくて、設楽さん曰く「オヤジの鉄観音」。際立つ美味さは全然なくて、しみじみ美味い。肌寒い雨の午後なんかに、本でも読みながら飲み続けたいお茶。

 ただ、どちらの茶葉も見た目は結構いい加減。大きさは揃ってないし、茶葉の丸め方も一定してない。でも飲むと美味い。一煎目だけ、ちょっと雑味を感じるけど、二煎目からは、例えば黄金桂の場合、上のクラスの茶葉と区別がつけられるかどうか自信はない。

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 設楽さんが「茶葉は、袋から出したら笊で篩うんですよ」と言う。特に、安い茶葉の場合、その手間を惜しむと不味いと言われるようなお茶になることも多いそうだ。お茶屋の大事な仕事の一つなのだろう。上の写真は、その作業中。

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 篩うと、かなり屑のようなものが出る。「これはゴミです。ゴミは売っちゃいけませんよね」と設楽さん。よく見ると糸くずとかも出てる。量り売りだから値段にもハネ返る。茶葉を厳選して入れている茶屋でないと出来ない作業だけど、これで美味しくなるのは間違いないのだから、しないよりした方が良い。もちろん買ってきた茶葉を自分で篩ってもいいけど、お茶屋で済ませてもらっていれば、それに越したことはない。

 かけなければならない手間は普通にかける。それがプロだというのは、茶屋だけの話ではない。ちゃんと手間かけて仕事しよ。

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必要な知識・趣味の知識

 中国茶を飲むのに必要な知識ってあるのか、とか考えていて、ああ、自分が飲んで美味しかったお茶の味と名前は覚えといた方が良いかと気がつく。あと、美味しく入ったお茶に出会ったら、そのお茶を淹れてる人の所作は見ておこうかとか。
 好きなお茶屋の場所も知っておいた方が良いか。それに、茶壷や盖碗などの基本的な使い方を知っていれば、自分で淹れる時に安心。

 考えてみると必要なのはこれだけかも、と思う。これ以上の、例えば、中国茶には青茶、緑茶、白茶とかの分類があって、とか、プーアル茶には熟茶と生茶があってとか、そういうのは、知っててもいいし、知らなくてもいい。いわゆる趣味の知識。

 何で、そういうことを考えたかというと、たかだかお茶を飲むという趣味に、上下関係があったりすると気持ち悪いから。前に、中国茶の本の中に東方美人の発酵度について誤った記述があるという指摘があったのだけど、何か、凄くどうでもいいと思ってしまったのだ、俺は。

 まあ、書籍である以上、データの間違いがあれば指摘してもらって修正するのは有り難いことなのだが、単なる読者の立場だと、別に東方美人の発酵度が70%だろうが50%だろうが、実は全発酵だったりしようが、本当にどうでもいいのだ。だって、買う店によって味も香りも全然違うのだから、発酵度だって一定の訳がないじゃないかとか。だったら本の記述なんて目安でしかないし、そもそも記憶力がバカな俺は、そんなのいちいち覚えてらんない。覚えておく必要があることは、他になんぼでもあるのだし。

 同じようなことは、プーアルの生茶、熟茶にも言えて、別に、生茶か熟茶かの判定って、俺には本当にどうでもいい。だって、試飲出来ないプーアルは買わないし、試飲して美味くて、値段がその味に見合ってて、その代金を出して買いたいと思ったら、別に、生茶熟茶の区別に意味はない。何年ものかというのも、ふーんと思うけど、別にどうでも良いように思う。とりあえず、それもレッテルだし、商品のレッテルは真実を語るためにあるものでもない。
 大事なのは、美味いと思った時に、それにいくら出せるかという自分の判断だけではないだろうか。むしろ、ひらたさんのblogの「普シ耳茶の謎」の記事に付いたコメント「プーアルとジャスミンのブレンド」というのが美味いらしい、ということの方が、よほど重要な知識だと思うのだ。

 もっとも、これは、俺がお茶で商売する気が無いからで、プロは分かんないとマズイとは思うけどね。そのプロでさえ、別に茶葉の発酵度の正確な数値なんて、どうでもいいのではないだろうかとは思う。
 プロにはプロで、また必要な知識が別にあるということだろうし、それを言えば、茶農には茶農の必要な知識があり、それぞれ違ったりするのだろう。

 プロの方の話は面白いけど、それは別の立場から見たお茶の話だから面白いのだ、ということを分かっていることは重要なのではないかとか思う。それが分かると、消費者サイドにも消費者サイドの立場だから言える、その立場だから気がつくことがある、ということも分かるような気がするのだ。

 この話、多分、またいつか続きを書くと思う。

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茶酔いの考察

 茶酔いしたとか、しないとか、するとか、したくないとか、色々聞く。
 で、思うのだけど、例えばチョコレートを食べ過ぎて鼻血を出したとか、アイスクリーム食べ過ぎて腹こわしたとか、コーヒー飲み過ぎて胸焼けするとか、そういうような事と、茶酔いは、同じようなことなのではないか。

 お茶は、それなりに刺激物である以上、また水と一緒に摂取するものである以上、人によって許容量は決まっているはずだ。それを越えたら、気持ち悪くなるのは当たり前。とはいえ、刺激は少ないから、お酒のように、飲めば酔うというわけでもなく、チョコレートのように明らかに油分を摂っている感じも無いので、普通に一人で飲んでいる分には、あまり酔うなんてことは無い。

 これがお茶の店などでの試飲や、お茶会だと、当たり前のように色んなお茶を、何杯も飲んだりする。それで酔った場合、その原因は絶対、そのお茶ではなく飲んだ人にあると思う。例えば飲み屋で、ビールを飲んで、日本酒を飲んで、ワイン飲んで、ブランデー飲んで、とコップ一杯ごとに違う酒を注文して飲んでいる人を見たら、「悪酔いしたいのか」と思うはずだ。
 同じように、いくら沢山のお茶が目の前にあって、言えば次々と出てくるからと言って、そんな風に飲めば、そりゃ酔いもするだろう。でも、それは、そのお茶のせいで酔ったのではなく、本人の飲み方のせいで酔っているのだと思う。

 何となく、あそこのお茶は酔う、とか、このお茶で酔う、という言い方は、分かりはするけど、どこか違っているような気がするのだ。少なくとも、茶杯一杯で酔うなんてことは、ほとんど無いはずだし、あったら、そのお茶は普通飲まないようにするだろうと。

 酒もそうだけど、お茶だって量飲める人がエライわけではないし。美味しく飲める分だけを飲むというのも、お茶を愉しむための技術ではないかと思う。多分、美味しいお茶を淹れる技術以上に重要。お茶会で、水飲みながら笑っててもいいじゃないか、とか。

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贈り物としてのFormosaTeaConnectionのお茶

 今、新橋のマキイマサルファインアーツ(東京新橋新一ビル別館 03-3569-7227)というギャラリーで「祥洲の墨の世界 Shoshu Sumi&Photo Works -花-」という書と写真の展覧会が行われている。

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 この福田祥洲という人は本場中国の書壇で書家として活躍する一方で写真と書の融合や、写真表現、CGと書といった面白いことをガンガンやる人で、俺が分かる唯一の書道家であるような人。その方が東京で個展をやるというので、初日に駆けつけようと思ったのだが手ぶらで行くのはイヤだった。やはりご祝儀は渡したい。で考えたのは、Formosa Tea Connectionのお茶だ。

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 写真で見ても分かるように、ここのお茶は一つづつ、アルミガゼットの入れたものを、さらに青い染めた和紙で包んである。高山茶系の茶葉が丸まっているものだと、サイズ的にも小さくまとまって、しかも固く丸められた茶葉だから、茶葉がクラッシュする心配も少ない。どこにでも持っていって、そのままプレゼントとして渡せるクオリティ。
 そもそも、ここの留美さんの雑貨やグッズに対する視線の鋭さは、ちょっと他にいないくらい凄いと思う。何というか、趣味を越えて正解を出しているような気がするのは、元々そういう仕事をされていたからだろう。

 Formosa tea Connectionのお茶が、お使い物に良い理由は、そのパッケージだけではない。ここのお茶って、どれも、どう淹れても、さほど失敗無く美味しく飲めるからというのも大きい。これは実際に飲んでいて、いつも感じることだし、留美さんもなるべくそういうお茶を扱うようにしていると言っていたので間違いないと思う。
 ということで、このところ、本当に心からの贈り物をしたい時に、Formosa tea Connectionのお茶を使っている。お茶葉を50gというのは荷物にもならなくて良いのではないかと思う。

 で、祥洲さんの展覧会だが、会期は2004/1/19-31 会期中無休11:00-19:00、但し土/日曜日のみ11:00-17:00ということになっている。これ、本当に見て損はない。

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発酵って「枯れる」ことなんだな

 リンクのお願いをしていたFormosaTeaConnectionから、リンクOKのメールをいただいた。そのメールの中で「醗酵」ではなく「発酵」の方が表記として正しいようだ、と指摘があり、全然、表記の統一とか考えてなかった俺は、赤面しつつ修正したのだった。

(ついでに、FTCでは華泰茶荘と間違う人がいるという指摘もあったので、FTCも全て「FormosaTeaConnection」に修正した。Fa Tai Chasouとか考えるのだそうで、しかし華泰はHUA TAI TEA、つまりHTTなのだけどな)。

 つまり、「発酵=枯れる」の意味だそうで、言われりゃモットもなんだけど、何か「そりゃそうだ」と目からボロボロ、色んなものが落ちた気がした。葉っぱはほっとくと、周囲から赤く枯れていくのだった。半発酵って、要は、どのくらい枯らすか、なのだ。枯れる=熟する、でもあるわけで、ああ、そうか、と思う。
 言われないとわからない、俺のバカも相当なものだが。

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